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 広島県呉市に平成17年10月にオープンした 大和ミュージアムを訪ねました。
呉は戦前 東洋一の軍港と造船で栄えた都市で 戦艦大和もこの町で造られました。
大和ミュージアムは1/10の戦艦大和や本物の零戦 人間魚雷「回天」などの他
軍港呉の歴史資料が展示され 近代日本の歴史を学べる施設とあって
開場1年と僅かで入場者数は200万人を突破するなど 人気を博しています。
 
  ●大和ミュージアム●
 戦艦大和は 昭和16年12月  呉海軍工廠(海軍直轄工場)で
当時の最先端技術の集大成でありながら 極秘裏に建造された
世界最大の戦艦でした。

 昭和20年7月 沖縄を救うために 大和は出撃しましたが
東シナ海で米艦載機の攻撃を受けて沈没。
乗員3,332名のうち3,056名が大和と運命を共にしました。
 しかし戦艦大和建造の技術は生き続け 世界一の大型タンカー製造、マツダの自動車製造など 幅広い分野で応用され 戦後の日本の復興を支えてきました。
 皆さんは、大和ミュージアムでどんな発見があるでしょうか......。
10分の1戦艦大和は 平和の大切さや科学技術の
素晴らしさを 後世に語り継いでいます。
大和ミュージアムは1階から4階まであり
1階には1/10の戦艦大和や本物の零戦 人間魚雷「回天」などが展示されています。
戦艦大和
 全 長263m 満載排水量72,809トン
 水線長256m 公試排水量69,100トン
 最大幅38.9m 基準排水量65,000トン
 水試吃水10.4m 公試最大速力27.46ノット(時速約51km)

 大和の最大の特徴は46cmの主砲(1.5トンの砲弾を42km先に着弾させる能力を持つ)9門の搭載です。
 3連装主砲塔は重さ1.5トンの砲弾を40秒ごとに発射できました。
砲身の長さは20.7cmに及び 砲弾の「九一式徹甲弾」は長さ2mです。

大和を生んだ呉は
    明治22年 呉鎮守府設置
    明治36年 呉海軍工廠が設置

大和の新機軸としては

 ・重心を下げるために 一番砲塔付近を艦首より下げた
 ・砲撃時の激しい振動に耐えられる様キール(竜骨)が2本ある
 ・球状艦首(バルバスバウ)
   艦首を球状にして艦首が起こす波と 球頭で起きる波が
   相殺されるようにしています。
   これは航続距離を伸ばし 有効馬力を大きくするため工夫
   された技術です。
   球状艦首の技術は 現在の小型漁船や大型タンカー造船
   など 現在でも大いに生かされています
 ・舵に被害を受けても 補助舵だけで操縦可能
   しかも小回りが利くようにしています。
 ・磁気機雷に反応しないよう舵の外に艦に沿ってコイルを巻く
   磁気を打ち消すようにしています。
 ・館内は冷暖房完備で エレベーターも設置
   大戦前期の大和は戦闘出撃も少なくバトルシップではなく
   豪華な船内はホテルシップという異名も...。
 ・大和の生産管理 工法、先行儀装
   コスト&建造期間短縮技術が 戦後になってからも建築な
   ど様々な産業で活用されています。
 ・世界一の大きさと性能の15m測距儀(目標までの距離を計る)
   これも戦後になってから 精密光学機器産業で活用され、
   また大和の装甲板は 呉海軍工廠で開発された特殊なも
   ので 耐弾性能が高く製造期間も従来の半分でした。
   こちらも戦後になって 特殊鋼(合金)などの製造に活用さ
   れています。

   その他 鋳造技術や新幹線の台車技術、マツダの自動車
   製造へと幅広く応用され 平和産業への転換が巧く行った
   例といえるでしょう。 

   球状艦首の美しいラインにも理由があったのですね。
 太平洋戦争と戦艦大和
 江戸末期から明治初頭にかけて 欧米列強から不平等条約を押し付けられ 富国強兵政策に執心していた日本は 日清、日露、第一次大戦に勝利し なんとか不平等条約を撤廃。
 天然の良港呉には 鎮守府や海軍工廠が設置され 東洋一の軍港となり 日本も大正末期には 欧米と肩を並べる帝国主義国家に成長しました。

 やがて日本は 米、英、仏、伊とともに ワシントン条約、ロンドン条約という「米、英5 日本3」の割合で海軍軍縮条約を結びますが 日本は “海に囲まれているので大きな海軍力が必要だ” と強く抗議しました。(いずれも1936年末に失効) 
 昭和に入ると日本の対外膨張政策は 中国侵略など益々増大します。ナチスドイツにフランスが降伏したのに乗じ、日本は仏領インドシナ半島にも進出。日本の露骨な東アジア侵略に対し 米英中蘭は日本への石油禁輸で対抗(ABCD包囲網)
「日本軍は中国から軍を引き揚げ 満州事変以前の状態に戻しなさい」と米国は迫り 日米交渉は難航。その到達点が太平洋戦争だったのです。

 日本の艦船の大部分はさきの両条約の中で建造され 戦艦の基準排水量35,000t以内、砲口径40cm以内とされ 開戦時10隻の戦艦を保有していました。(米国は開戦時9隻の旧式戦艦を太平洋に配備) 日清日露戦の勝利以来 海軍は海上兵力の一番の主力はやはり戦艦という考えを持っており(大艦巨砲主義) 開戦前後に 大和・武蔵の世界最大の戦艦を完成させていました。

 山本五十六など司令官や一部参謀は 米、英と建艦競争しても勝ち目はないとして航空戦力の重要性に着目していました。
1940(昭15)年11月に英軍は時代遅れの布張り複葉機で 伊軍港タラントの奇襲に成功。艦船に対する 航空機の優位性に日本海軍は関心を持ち 真珠湾奇襲作戦を研究したそうです。

 零戦という“俊敏で格闘性があり航続距離の長い”戦闘機を開発し、真珠湾攻撃では“空母で可能な限り近づき そこから航空機で奇襲”という大胆運用を編み出し マレー沖海戦でも航行中の英艦船(プリンス・オヴ・ウエールズ、レパルス)を航空攻撃で撃沈するという世界初の戦術を実現しました。 しかしそれでも 依然として海軍は大艦巨砲主義を信奉し それが主流となっていました。

 一方で、真珠湾攻撃の空母機動部隊の行動力と攻撃力は「空母のこうした運用もあるのか」と世界に影響を与え 米国もドゥリットル隊がB25で日本本土を初空襲しました。

 日本は 日清、日露、太平洋戦争のいずれも“戦闘開始後に宣戦布告する”という卑劣な騙し討ちを行いました。太平洋戦争も緒戦の勝利が続き 石油が残る間に和平交渉に持ち込む予定でしたが 米国で“筋を通さぬ日本を叩け”世論が高まったのは大きな誤算でした。
 1943(昭18)年以降、工業力の疲弊する日本は 太平洋で敗退が続き、米軍の(ドイツUボートに範を求めた)潜水艦攻撃で 日本艦船多数が失われシーレーン防衛は困難となります。

 連合艦隊は 1944(昭19)年10月のレイテ沖海戦で 残存する兵力を結集しましたが壊滅。 この時点で日本海軍の組織的戦闘力は ほぼ失われたと云われています。
 以降は“一億総特攻”の精神で 特攻隊も生まれ 国民の死が唯一の戦略という無謀で狂信的な思想一色となり やがて日本は破局を迎えます。

 大和はそれまで殆んど無傷でしたが、世紀の巨艦が瀬戸内海に浮かんでばかりではないか..... という一億総特攻の声に押されて 1945(昭20)年4月6日 山口県徳山を軽巡洋艦「矢矧」 駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」と共に10隻で“海上特攻隊”として出撃しました。
 豊後水道を出た所で既に、米潜水艦に発見・追尾されながら 1945(昭20)年4月7日鹿児島県坊ノ津沖200kmの海上で 米艦載機380余の猛攻を受け撃沈され 乗員3,332名のうち3,056名が大和と運命を共にしました。
“沖縄を救う為の特攻”の性格を帯びていた大和は 積んであった燃料も沖縄までの片道だけだったのです。

 それまでの特攻が 隊員の志願だったのに対し
海上特攻は支援に関係なく命令で強行されたという点で
旧日本軍の非合理性、非人間性に強い憤りを感じます。

 戦争体験の継承・風化などが問題となっている昨今ですが
私たちはここで 戦艦大和のスペックや造形美に目を奪われるばかりではなく 巨大な惨禍を招いた60数年前の苦い歴史の中から 何かを学ぶ事が必要だと痛感しました。



 悲劇の巨艦は 私たちに
 平和の尊さを訴え続けています
1階 呉の歴史展示室  大型資料展示室
東洋一の軍港として発展してきた呉の歴史などが紹介されています。写真右は戦艦金剛のボイラー 実物です
零式戦闘機62型
 零戦としては末期(昭和19〜20年)のもので、特攻などに多く使われた頃の機体です。
 250キロ爆弾を胴体中央下部に搭載、 主翼下に爆弾、 主翼と機首右側に機銃の重装備は 爆撃、特攻任務を兼ねた形となっていました。この頃は乏しい資源を節約するのか簡略化が図られ 機体の日の丸にも白の縁取がありません。
特殊潜航艇「海龍」や、人間魚雷「回天」なども展示されています。
 敗戦後の呉市は 軍の解体、空襲による基幹産業壊滅で人口も激減 日本一の失業都市となり治安も悪化しましたが 朝鮮戦争特需等で市勢はなんとか回復。
 旧軍港市転換法で 呉は造船、鉄鋼、自衛隊の町として再生する事が出来ました。世界最大のタンカーも戦後の呉で作られ その模型が誇らしく展示されていました。
 呉の街詳細は 私のサイトのこちらをどうぞ
3階 「未来へ」展示 船をつくる技術展示
「未来へ」展示では 松本零士氏の世界などが紹介されています。
宇宙戦艦ヤマトの模型や ミニシアターがあります。

3階からの景色(写真下)
戦艦大和を始め 戦前戦後を通じて 造船の町として繁栄した造船工業都市 呉ならではの風景が広がっています。(展望テラスは4階にあり)

3階には 科学の不思議が体験できる実験装置や工作教室が開催され
子供づれでも楽しめます。
 船を中心とした科学の原理が
遊びを通して学べます。
(工作教室は週末の開催)
ミュージアムショップ やまと
戦艦大和関連のグッズ、書籍、模型、 呉物産品のお土産もあります。正面玄関を入り左手です。
屋外 大和波止場 レンガパーク
大和波止場は 戦艦大和の前甲板の左半部を実物大で表現した公園となっています。
造船、鉄鋼、自衛隊の町として栄える呉ならではの港湾風景も楽しめる屋外には 潜水調査船「しんかい」や 水中翼船
戦艦大和の艦橋部をイメージしたあずまやなどがあります。
呉中央桟橋ターミナルはすぐ横にあり 松山、今治からのフェリーが結んでいます。
レンガパークでは、戦艦「陸奥」の主砲身、スクリュー等
引き揚げ品を展示しています。
2007年春には 海上自衛隊呉史料館(仮称)も向いに完成予定
現在 潜水艦「あきしお」も運ばれてきています。
 駐車場も充分にありますし、大和ミュージアムの向かいにはゆめタウン呉店
がありますので 家族で行っても 女性陣にはショッピングで時間を潰してもらう事も可能です。
 ゆめタウン呉店は食事場所としても選択肢が多く 3階に食堂街がありますし リーズナブルなお店がお好みであれば 1階にフードコート形式(セルフ配膳)の食堂街があります。 (繁華街は駅北側 呉の街歩きは当サイトのこちらで)

 JR呉駅からは改札を出て右側の“自由通路”という高架歩道で結ばれ 
車の往来を気にしたり 信号待ち無しに 大和ミュージアムへ5分で行けます。
自由通路途中に 呉市の観光案内所があります)

 大和乗組員や回天搭乗員の遺書などを見ていると 目頭が涙で潤んできます。
当時は検閲があり 自分の心情も吐き出せなかったという時代
大和乗組員や残された家族の心情などを思い描きながら 
平和で豊かな未来を築く事の大切さを再認識しました。


大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)
広島県呉市宝町5番20号 
  開館時間 観覧料など 公式サイトはこちら 
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