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宮崎県日南市の飫肥(おび)に行ってきました。
苔むした石垣や白壁の武家屋敷通り 清流に泳ぐ錦鯉
そんな江戸時代の風情を色濃く残した 飫肥藩・伊東氏
5万1千石の城下町
南九州の小京都と呼ばれています。
飫肥地区の人口は現在約6,400人。
江戸時代まで飫肥藩の城下町として栄えました。
戦後 漁港町の油津と合併の話が出た時に お互いに飫肥市、
油津市と主張し合い モメながら市制を施行、双方合意できる
市名をという事で(笑) 日南市になっています。 (実はここが昭和の大合併の先駆けでした)
昭和52年 重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け
城下町らしい景観と飫肥城を復元をするために
大規模な改修を行いました。 |
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飫肥城跡 |
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飫肥観光の定番スポットでもある 飫肥城跡から訪問しました。
飫肥藩(おびはん)は現在の宮崎県日南市周辺にあって、
日向国那珂郡のある南部を支配した藩です。
藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名です。
領内は平野や耕地が少なく、山林と海浜に囲まれていた険しい所ですが そんな中、温暖で湿潤な気候を利用し
杉・檜などの林業を発展させました。
今日でも「飫肥杉」はこの地の特産として名高く
黒潮おどる目の前の太平洋を漁場とした漁業も
藩財政の一翼を担いました。 |
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大手門(左写真)
明治初頭に取り壊されましたが 昭和53年に
樹齢100年以上の飫肥杉を使って復元されました。
木造渡櫓、本瓦葺きの重厚な造りです。
飫肥の写真に必ず登場しているのが この大手門ですね。 |
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豫章館の入口にて |
観光ボランティアもおられます |
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奥に歩いて行くと飫肥城歴史資料館 本丸跡があるのですが
飫肥杉の巨木に癒されます。
飫肥藩の歴史や文化を知るならこのエリアは外せないでしょう。
飫肥城は飫肥市街北部の丘陵に 曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城です。
2006年(平成18年)4月、日本100名城(96番)に選定されました。
戦国時代 既に島津氏が居留していたとされますが
築城の経緯はあまり明らかになっていません。
その後 伊東氏と島津氏の激しい攻防の末
豊臣秀吉の九州征伐に功労が認められた伊東氏が
明治維新まで 居城として飫肥を治める事になりました。 |
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武家屋敷通り |
大手門を出て東側に歩いて行くと 武家屋敷が並ぶエリアに出ます。
横馬場通りとも云いますが 町割りは江戸時代とほとんど変わっていませんから
古い石垣が今も残り 面影を良くとどめていました。 |
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飫肥城下町の商人通り |
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 本町は かつて飫肥城下町の商人通りだった所です。
ここは国道222号線となり 勿論国道が拡幅されはしましたが
当時の面影を留めるために 家屋も和風建築の白壁に統一され
電線の地中化も施されています。
飫肥の街中は飫肥城駐車場の所に貸自転車があるので
自転車を借りると効率的に回れます。 |
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江戸時代 ここには多くの商家が立ち並んでいましたから
商家資料館が開館していました。(写真上)
飫肥杉を組んで 漆喰で仕上げた建物は明治3年の建造で 見応え充分です。江戸時代の商家や商人の使っていた商売道具等250点が展示されていました。
本町商人通りには厚焼たまごや飫肥天(天ぷら)など 藩主に献上された味を 今も伝える店が点在していました。 |
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放流される鯉が古都の町並みに溶け込んでいます。
土地の気風は質実剛健と云われます。下地図のように城下町を酒谷川が取り囲むように流れます。 |
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飫肥観光案内所 |
小村寿太郎 生誕の地 |

南国情緒あふれる 日差し眩しい日南海岸から一転して
藩政時代の情緒を残す落ち着いた城下町・飫肥
日露戦争終結のポーツマス講和の際、全権大使を務めた
外務大臣小村寿太郎氏が ここ飫肥の出身でもあります。
皆さんも小さな旅に出かけてみては如何でしょうか。 |
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飫肥藩は 武士の子弟だけでなく、農民にも弓矢を持たせることが許されたという藩。
←右写真の場所に 四半的射場と呼ばれる観光用の射場もあったりします。
飫肥杉の巨木に癒されたり
日本本土南端に近い小京都・飫肥は
なかなかの風格と味わいがありますよ。 |
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